金英花の移民物語

研究や、日々の思考を文字化しています。

非常棒的正能量的三句话

f:id:kim-yh:20180314225326j:plain

第一句话

你的责任就是你的方向,你的经历就是你的资本,你的性格就是你的命运。

第二句话

复杂的事情简单做,你就是专家;简单的事情重复做,你就是行家;重复的事情用心做,你就是赢家。

第三句话

美好是属于自信者的。机会是属于开拓者的,奇迹是属于执着者的。

毎日一句:奔跑的人和怕摔倒的人

世界这么大,有人在奔跑,有人怕摔倒,路上坎坷一样,不一样的是,奔跑的人心里只有目标,怕摔倒的人总是盯着路上的荆棘。最终的结果,奔跑的人达到成功终点,怕摔倒的人,纠结一生,枉费才华,遗憾终生!没有一条路是坎坷的,没有一个人不是经历磨难就能获得成功的!大自然的规律,谁也无法改变,坚持,奔跑,相信,结果就是成功!

我愿意为这一生燃烧自己,死前不留惋惜和后悔。

中国語随想:「遗臭万年」から歴史問題への向き合い方を比較してみる

遗臭万年:死后留下的恶名。死后恶名一直流传,永远被人唾骂。の意味である。

国史の中で「民族英雄」、「忠義之臣」、「救国英雄」として最も尊敬される人物が南宋岳飛である。それに比べて秦檜は岳飛を謀殺・平民へ落とすなどし、金との講和を進め和議を結ぶなどして、売国奴の代名詞として蔑まれた。

さて、当時秦檜の考えていた和平が間違っていたかどうかは別として、視点を変えて考えてみれば、もしかしたら「偏狭」な愛国心ともとらえる岳飛の主張通り、金との全面戦争になれば、南宋の滅亡はもっと早かったことになったこともあり得る。結局は金も南宋も異民族であったモンゴル(元)に滅ぼされてしまうが、結果はそうだとしても、岳飛がもし内部闘争で勝ったら、それでも歴史の流れは変わっていたかもしれない。

ここでは当時の政治についての評価よりも、岳飛と秦檜への評価にある。岳飛廟の前に跪いている秦檜夫婦像に訪れた人々が奸臣と唾を吐きかける習慣が最近まであり、人の死後にまで罰をあたえようとする中国人の考えは、「死ねば罪は消えてなくなり、皆仏になる」と考える日本人とは随分異なることが分かる。不祥事を起こした政治家や芸能人もそのポストや役をやめることで「容赦」とういか、「償い」できたという考えがどうも日本人の中にはあるらしい。靖国神社への参拝への意見が国ごとに分かれるのもこの発想から考えてみれば理解しやすい。

中国や韓国は歴史問題をとやかく言っているが、良い、悪いという問題ではなくこうして視点を変えて、宗教感、文化の違いから考えれば、相互の国民の感情が理解しやすくなり、お互いの摩擦も少なくなってき、疎通がより円滑になってくるのではと考える。「死ねば罪は消える」という考えは日本特有の考え方かもしれない。

 

 

 

中国語随想:日常生活と関連深い朱子学

先代の知恵は今を生きる私達に進む道に躓くたびに一筋の光のようにいろいろな角度から導いてくれたりする。「哲学をやれ」とよく学生にも伝えているが、それほど、人間の本質を探究することは、今を生きる私達にとって大切なことである。

引きこもり問題や、なかなか時間の約束に間に合わせることができなく、不登校になったりする子達がいるとする。彼らの心理状態を見てみると、短編的かもしれないが、「時間が近づくにつれて、だんだん嫌になる、鬱になってしかたがない、面倒くさく感じる…何気ないときにも無意識に気にかけてしまう、予定があると常にストレスを感じてしまう…嫌過ぎて何かと理由をつけてドタキャンしたくなる、いろいろ考えすぎてしまい、楽しさよりも不安、面倒のほうが大きくなってしまう」…しかし、当日に実際遊んでみると普通に楽しいし、今までの鬱は何だったんだろうなと不思議なほど一気に解放される... こういう状態を毎回繰返すのであるゆえに、毎日の登校や通勤となるとものすごい圧力となってそのストレスから抜け出せず、つぶれてしまい、不登校になってしまうのだ。

そういうときに、役に立つのが朱子学の精神である。我々の祖先は、多分自分達の子孫が意外なところで自分達の教えより救われているとは思わなかっただろう。

さあ、そもそも朱子学とは何なのか?

儒教の思想を基にした、実践を伴なうという考えである。朱熹の理論では宇宙は「原理」と「運動」の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と称した。人間の本性は「理」か「気」なのか?自然科学的な視点から、宇宙は「理」、気は「心」と解釈したのである。心は常に変わりつつあるので、本性である「理」を常に確認しなければならない。その反対の主張をしたのが陸である。

宗教も同じであるが、祖先の知恵を自分なりに解釈して我々の生活に融合させ、生きる羅針盤にしていくのは心の養食でもある。

やりたいことがみつからないと立ち尽くしたり、やりたいことしかやりたくないと狭い了見は捨てて、とりあえず目の前のやるべきことに正面から向き合ってみる。気持ちが楽になるのをきっと感じるだろう。これが朱子学の日常化との接木であるのだ。